亡国の王女‐白薔薇の黎明‐

Novel

黎明の誓い

黎明の誓い

砕けた大地の中で、セリアの身体は雪に沈み、意識はゆっくりと闇に溶けていった。
薄れゆく意識の中、誰かの声が聞こえた。
それは、あの夜、玉座で途絶えた父の声。

『セリア……血は鎖ではない。心だ…… “ 契約の血 ” とは、繋がりを意味する。 封印は壊れたように見えても――まだ絶たれてはいない。 お前が信じる限り、その絆は息づいている……』

セリアは微かに唇を動かした。
「……はい……まだ……終わっていません……」

冷たい空気が肺に満ちる。
霞んでいた視界に、ゆっくりと雪の白が戻ってきた。

そして、雪が降り始めた。
炎の灰と共に、静かに、音もなく。

――それが “ 封印の夜明け ” の前触れだった。

夜と朝のあいだ――世界の縁が最も薄くなる刻。
灰の野の中央に、直径百歩の光輪が描かれていた。
雪は蒸気になって消え、灰は宙を逆巻き、《レーヴェン》の刃先から伸びる細い光が、大地の血脈をたどって四方へ走る。

セリアは片膝をつき、左の掌を刃に滑らせた。
赤い線が剣を染め、血の熱が古い言葉を目覚めさせる。
その声は低く、しかし世界の骨にまで響いた。

「王家セリア・レヴァリアの名において命ず。 災厄の名、バル=ヴァルド。 汝は “ 終わり ” に飢え、 “ 始まり ” を穢す者。 我が血をもって時を鎮め、眠りの門を閉ざす。」

咆哮。
巨獣が怒り、空が砕けた。
炎と影の奔流が降り注ぐ。
だが剣の赤は消えず、光輪が幾重にも重なり、白く鳴りながら灼熱を呑み込んだ。

帝国ガルドの兵も、レヴァリアの兵も、皆その光に見入った。
敵の味方の区別が、その瞬間だけ世界から消えた。
あるのはただ、ひとりの少女と、ひとつの獣と、一本の剣と、古い契約。

ラウドが這うようにして近づく。
「姫様……せめて、我らの手で護らせてください……!」
セリアは振り返らず、微笑んだ気配だけを残した。
「ラウド。あなたの剣は……とても綺麗。ありがとう。」

アルノの声が叫びに変わる。
「殿下、共に立たせてください! 我らもレヴァリアです!」
少しの沈黙ののち、彼女は静かに続けた。
「生きてください。あなたたちが、この国の証です。」

《レーヴェン》が地に突き立てられた。
金属ではなく、世界そのものが鳴る音がした。
刃から迸る光が大地を貫き、雪原に幾重もの光輪を描く。

光輪は膨張し、震え――そして、一気に収縮する。
大地が悲鳴を上げ、空の皮膚がめくれ、裂け目から光が血のように流れ出した。

それは破壊ではなく、痛みに満ちた再生だった。
世界が自らを癒やそうとする音が、セリアの鼓膜を打つ。
「まだ……終わらせない……」
彼女の声に応じるように、光の波が再び広がる。

その瞬間、天が裂けた。
《バル=ヴァルド》が翼を振るい、光そのものを叩き潰す。
暴風が地を裂き、雪原が波のようにうねり上がる。
その咆哮は雷鳴を孕み、空の色を変えた。

だが――封印は揺るがない。
光輪の縁が鎖のように絡み合い、巨獣の影を縫い止める。
光と闇がぶつかり、音が形を持つほどの衝撃が天地を揺らした。

セリアは両手で柄を握りしめ、膝をつきかけながらも立つ。
刃の冷たさが、まるで父の手の温もりのように彼女を支えた。

「……父上……見ていてください。血ではなく “ 心 ” で繋がる誓いを、今ここで果たします。」

彼女の血が刃を伝い、紅の線が光輪の中心を貫いた。
一滴の血が、刃の根に落ちた。

――音が止む。

次の瞬間、光が音へと変わった。
世界の骨が共鳴し、天地がひとつの声を上げる。
雪は空へと逆流し、灰が舞い上がり、すべてが光の奔流に呑まれていった。

《バル=ヴァルド》の影が崩れる。
裂かれた翼が、祈りのように天を仰ぐ。

だが次の瞬間――
巨獣は、燃え尽きる星のような声を上げた。
それは怒号でも悲鳴でもない、この世に留まることを拒む ** “ 滅びの慟哭 ” ** だった。

その咆哮が空を震わせ、雪と灰が一斉に舞い上がる。
まるで、己が生の残滓を空へ還すように。
咆哮はやがて嗚咽へと変わり、その身を溶かしながら、光の粒となって空へ帰っていった。

炎も、熱も、重ささえ――静寂に溶けた。
――そして、夜が終わった。

風が戻り、ただ一人の少女が立っていた。
《レーヴェン》はなおも淡く脈動していた。
それはもう、剣の鼓動ではない。
――世界の心臓が、彼女の手に宿っていた。

セリアは立ち上がろうとした。
しかし、もう力は残っていなかった。
「……セリア……  お前の “ 心 ” が……世界を繋いだ……  よく……やり遂げた……  お前は……私たちの光だ……」
亡き父の声が、風の中に溶けていく。

彼女は微笑み、剣に額を寄せた。
「レヴァリアは、ここに。」

身体がそっと前へ傾く。
《レーヴェン》が支え、雪が彼女を優しく受け止めた。

朝日が昇る。
帝国の旗が一つ、また一つと降ろされる。
ラウドは膝で進み、彼女の頬に触れた。
まだ温もりがあった。
アルノは槍を立て、静かに言った。

「風は見届けた。――殿下、あなたの誓いを。」

光が野を包み、灰は白い花びらのように舞った。
この日の朝を、のちの年代記はこう記す。

“ 白薔薇の黎明 ” 。
亡国の王女セリア・レヴァリア、最後まで立つ。

封印の剣《レーヴェン》は今も灰の野の中央に眠り、春になるとその周囲に、煌びやかな白銀の花が咲くという。
風はそれを撫で、古い歌を運んでいく。

―― “ 国とは、旗でも城でもない。
同じ朝を信じる者たちの、誓いそのものだ。 ” と。

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