亡国の王女‐白薔薇の黎明‐

Novel

灰の戦場

灰の戦場

灰の野――かつて緑が広がっていた高原は、いまや白灰の荒野と化していた。
王都から吹きつける風は、煤と血の匂いを運ぶ。
その地で、レヴァリア残党と帝国ガルド軍、二つの軍勢が対峙することになる。

セリアは雪上に立ち、風の流れを読む。
《レーヴェン》の刃が薄曇りの空を映し、その瞳には決意と静かな恐怖が同居していた。

「帝国は、我らがここに集まったと知れば必ず動く……」
隣に立つラウドが頷く。
「連中は勝ちを確信しておりましょう。まさか “ 誘われている ” とは夢にも思うまい。」
セリアは小さく息を吐いた。
「いいえ、彼らもまた犠牲者です。あの巨獣が再び現れれば、敵も味方もありません。
――この地に《バル=ヴァルド》を呼び戻す。そのために血を流すのです。」
ラウドとアルノは、しばし黙した。
その策の意味を、誰よりも理解していたからだ。

セリアが語った “ 餌 ” の言葉――それが、いま現実となろうとしている。
帝国を討つためではなく、滅びそのものを鎖すために、また血を流さねばならない。
その静かな残酷さに、誰も軽々しく声を発することができなかった。

やがて、地平線の彼方に鉄の軍勢が現れた。
黒鉄の装甲車と火砲、そして帝国の旗が雪原を埋め尽くす。
空が唸り、火線が閃いた。

帝国の先陣――漆黒の軍馬に跨る将が、冷たい風を裂いた。
鋼の仮面の下から、嗄れた声が響く。

「これがレヴァリアの残火か……。王を失い、なお刃を向けるとは、哀れなことだ。だが命令は絶対だ。灰ごと踏み潰せ――帝国に歯向かう炎は、ここで終わらせる。」

その声に呼応し、無数の旗が一斉に翻った。
鋼の巨砲が動き、雪原に雷鳴が轟く。

「――始まったな。」
アルノが槍を構える。
風槍部隊の残兵が、一斉に膝をつき、構えを取った。
雪を蹴り上げ、冷気が唸りを上げる。

「風よ、我らに道を。」
セリアの小さな祈りが、戦の喧騒に溶けた。

最初の砲撃が、灰の野を裂く。
帝国の炎弾が雪を焦がし、黒煙が空を覆う。
レヴァリア軍の盾列が軋み、兵が吹き飛ぶ。
だが、誰も退かなかった。

アルノの号令が響く。
「風槍、前へ! 雪を裂け、突撃――ッ!」
白い奔流が動く。
槍の穂先が風を切り、帝国の銃列に突き刺さる。
炎と血が混じり、雪原が赤黒く染まった。

銃声、爆煙、叫び。
兵が倒れ、槍が折れ、血が雪を溶かす。
帝国の将が吠える。
「踏み潰せ! 生かすな、皆殺しだ――!」

レヴァリア兵の咆哮が応える。
「帝国にひるむな!風と共にあれ!!」

刃と刃がぶつかり、怒号と祈りが渦を巻く。
その叫びはやがて、風の唸りとも、雷鳴ともつかぬ音に変わっていった。

――そのときだった。

大地が震え、雷鳴が轟く。
次の瞬間、地割れが走った。
空気そのものが悲鳴を上げ、雲が裂けた。

黒い霧が、風に逆らうように昇り――そして、形を取る。
その輪郭は炎に焼かれた空気の歪みのように揺れ、やがて、鉄の翼と漆黒の鱗が現実へと滲み出た。

《黒き巨獣――バル=ヴァルド》。

セリアは風を背に、立ち上がった。
「……来た……!」

その翼は曇天を覆い、瞳は煮え立つ紅蓮。
かつて王都を焼いた炎が、ふたたび天を焦がした。
帝国の陣営は混乱に包まれる。

ガルドの指揮官が怒号を飛ばす。
「落ち着け! 砲列を維持しろ、撃て――撃てぇッ!」
だが砲手の手は震え、火縄は湿った雪に落ちた。
兵たちは空を仰ぎ、声もなく後ずさる。
一人が呟く。
「……神が、裁きに来たのか……?」
その声は風に攫われ、次の瞬間、炎が味方の列を呑み込む。
恐怖と絶叫が渦を巻いた。

ラウドが叫ぶ。
「姫様――もうこれ以上は……っ!」
声が掠れ、言葉の続きを飲み込む。
それが “ 止めたい ” という願いであることを、セリアはわかっていた。

「いいえ、ここが封印の地。《レーヴェン》が反応しています!」

剣の刃が青白く輝き、その光が雪に反射して、まるで昼のように辺りを照らした。
セリアは一歩、巨獣の影へと進む。

「アルノ! 風槍を展開、帝国軍を後退させて!」
「なんと!?」
「バル=ヴァルドはおびき出せた!あとは彼らを救うのです!あの獣に呑まれる前に!」
その声は、炎と雪を越えて広がり、敵味方の心臓を撃った。

アルノは迷わず叫んだ。
「全隊、帝国軍を援護せよ! 生き延びろ――それが姫の命だ!」

雪原から、敵味方の区別が消えた。
風槍部隊が帝国兵を引き寄せ、負傷者を背負い、陣形を整える。
恐怖の渦中で、誰もがひとつの巨影を見上げていた。

その頭上、黒い翼が広がる。
《バル=ヴァルド》が、封印の血を感じ取ったのだ。
王家の血――セリアの存在。

巨獣の咆哮が空を裂く。
その音は雷よりも重く、大地を叩く衝撃波が雪を巻き上げた。
セリアはその中心に立ち、剣を掲げる。

「私は…… “ 契約の王 ” の末裔!この血をもって、お前を再び鎖す!」

大地の骨が軋み、空が悲鳴を上げた。
《バル=ヴァルド》が翼を広げ、夜を覆い尽くす。
その双眸は紅蓮、口腔には灼熱の洞。

一息、吐いた。
帝国の左翼が、炎と影の奔流に飲まれて消えた。
鎧は蝋のように溶け、叫びは風に砕け、ただ赤い霧だけが残る。

帝国兵の列に恐慌が走る。
指揮官の怒号は空へ吸い上げられ、重歩兵は盾を捨てて雪原に膝をついた。
帝国ガルドの旗が、一本、二本と倒れる。
セリアは見上げた――燃える空の底で、封印の獣は、人も帝国も等しく “ 滅び ” として裁いていた。

(私の国を壊したのはお前。 そして、お前の鎖を断ったのは帝国。 ならば、私の剣で――ここで終わらせる!)

《レーヴェン》が震え、刃の根に光の筋が走る。
セリアの脈動と剣の鼓動が重なり、胸の奥に熱が集まった。

「アルノ、合図を。右翼を退かせ、中央を開けて――私が、呼ぶ!」

アルノは一瞬だけ彼女を見た。
その瞳は理解し、拒まなかった。

角笛、旗、合図。
風槍の列が潮のように引き、灰の野の中央に孤島のような空白ができる。
セリアはそこへ歩いた。
足の裏で、大地が薄くたわむのを感じながら。

《バル=ヴァルド》の影が、彼女を中心に渦を巻く。
巨大な頭部が落ちてくる。
熱と圧力で肺が潰れ、膝が震える。
セリアは剣を水平に掲げ、唇を開いた。

「……父上……見ていてください。この血がまだ、あなたの誓いを覚えています……!」

風が凍り、音が止まる。
その瞬間、《バル=ヴァルド》の視線がセリアを捉えた。
巨獣が吠える。
雷鳴が世界を震わせ、空気が爆ぜた。

「姫様――ッ!」
ラウドの叫びが、炎に呑まれる。

爆音と光。
雪原が砕け、灰の野が裂けた。

セリアの身体が吹き飛び、雪に叩きつけられる。
意識が遠のく中、彼女は見た。
巨獣の瞳――その紅蓮の奥に、確かに “ 記憶 ” のような光が揺れていた。
それは、遠い昔に交わされた “ 契約 ” の残響のようでもあった。

――まるで、彼女の血を呼ぶように。

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