Novel
残された者たち

王都が炎に沈んでから、三日目の夜。
北の山裾は、まるで死者の息のように凍てついていた。
雪明かりが、世界をかすかに照らしていた。
風は木々の骨を鳴らすような音を立てながら、凍てつく谷を吹き抜けていく。
焦げ跡の残る黒いマントの少女――王女セリアは、崩れた石橋の下で膝を抱えていた。
息は白く、指は凍え、抱きしめる《レーヴェン》の柄は氷のように冷たかった。
それでも、その剣は微かに鼓動していた。
――まるで、彼女の心がまだ生きていると告げるように。
夜明け前、遠くの斜面に橙の瞬きが見えた。
焚き火――誰かが、生きている。
セリアは雪を踏みしめながら慎重に近づいた。
そして、炎に照らされた輪の中に、十数の影を見た。
煤に汚れ、傷を負い、鎧は割れ、剣の刃には灰がこびりついている。
それでも、彼らの背中にはまだ“戦士”の影があった。
その中で、一人の老騎士が立ち上がる。
片目を包帯で覆い、膝を引きずりながら――。
焚き火の光が彼の顔を照らしたとき、その瞳が見開かれ、声が震えた。
「……姫……様……?」
声はかすれていた。
焚き火の光が老騎士の顔を照らすと、その瞳から一筋の涙がこぼれた。
「姫様!本当に……ご無事で……!」
「生きています、ラウド。あなたも……生きていてくれたのですね。」
セリアは胸の奥が熱くなるのを感じた。
老騎士と兵たちは雪の上に膝をつき、しばし顔を伏せていた。
そして、震える声で問う。
「……陛下は……?」
「……父は……立派な最期でした……。」
ラウドは拳を握りしめ、雪を噛むように俯いた。
その肩が、わずかに震えた。
周囲の兵たちも言葉を失い、誰も顔を上げようとしなかった。
風が通り抜け、焚き火の炎が細く揺れる。
その揺らめきが、まるで失われた王の影を映しているかのようだった。
やがて、ラウドは深く息を吐いた。
声を出すのも痛みを伴うように、かすれた声で言った。
「姫様……王都は……瓦礫の海にございます。 今や帝国の旗が城壁を覆い……我らの刃では、何一つ守れませぬ。」
セリアは静かに雪を掬い上げ、半ば埋もれた破れ旗を取り上げた。
赤と黒に染み、竿は折れていた。
それでも、その布はまだ風を掴もうとしていた。
「この旗が風を覚えている限り、レヴァリアは死にません。勝てなくてもいい。――私たちが “ 在った ” という証を、誰にも奪わせはしない。」
その言葉に、老騎士の喉が震えた。
兵たちの視線が、火の粉のようにセリアへと集まる。
一人が鞘から錆びた剣を抜き、雪で刃を拭いながら、震える声で言った。
「……もう一度、剣を取ろう。姫の旗のもとに。」
そのとき――
雪の斜面を転がるように、一騎の伝令が駆け込んできた。
血まみれの外套を翻し、膝から崩れ落ちながら、叫ぶ。
「に……西の峡谷……“風槍部隊”の……生き残りが……! 二百余、合流を求む!」
焚き火の炎が夜気を照らし、男たちの顔が一斉に上がった。
誰も信じられなかった。
だが、その言葉は確かに――希望だった。
セリアの胸の奥で、長い闇の中に沈んでいた鼓動が、再び鳴った。
「風槍部隊……あの者たちは、国境を守っていたはず。まだ生きているなら――希望は残っている。行きましょう。彼らはレヴァリアの “ 肺 ” 。国が息をしている限り、魂は死なない。」
行軍は苛烈だった。
吹雪が肌を裂き、氷が靴底を奪う。
それでも隊列は崩れない。
セリアが先頭に立つたび、誰もが背を伸ばした。
彼女の歩く先だけが、闇の中で白く開けていった。
やがて、峡谷の入口に影が見える。
破れた幕、折れた槍、積み上げられた矢束。
そして、二百の兵たち。
その中には、黒煙の匂いをまとった者が多かった。
彼らは帝国ガルドの侵攻部隊と国境付近で激突し、辛くも生還したのだ。
鉄の巨兵と火砲の雨が降り注ぐ中、彼らが見たのは――遠く、王都の方角に立ち上る巨大な火柱だった。
空を焦がすその炎が、何を意味するか、誰も問うまでもなかった。
風槍部隊は敵の進軍を食い止めようと奮戦し、仲間を逃がす盾となりながら、血路を開いた。
その代償が、今も身体に刻まれた無数の傷跡だった。
その中心に、一人の青年が立っていた。
煤けた外套を脱ぎ捨て、雪の上に膝をつく。
切れ長の瞳が、燃えるように光った。
「王女殿下……! ご無事で……! “ 風槍部隊 ” 、アルノ・レイス。代理として全軍指揮を――いえ……残された者すべてを率いております!」
セリアは彼の手を取り、しっかりと握った。
その手は冷たく、しかし確かに生きていた。
「いいえ、アルノ。あなたたちは “ 残された者 ” ではない。あなたたちは――私の国そのものです。」
その言葉は、雪を割るように空気を震わせた。
一瞬の静寂ののち、槍が上がり、盾が鳴った。
その音は、絶望の中に差し込む鐘のようだった。
兵たちの胸に、失われた国歌の旋律が蘇る。
彼らはもう、逃げる者ではなかった。
「アルノ、兵站は?」
「糧秣三日分。矢は千、槍百五十。負傷者多し。ですが……全員、まだ立てます!」
「ならば――立ちましょう。帝国に見せてやりましょう。 “ 滅び ” とは、ただ沈黙することではない。私たちは、この雪原に “ 在った ” と刻むために――戦うのです!」
ラウドが一歩前へ出た。
「姫様、帝国を討つおつもりか……?」
セリアは首を振った。
焚き火の明かりが、彼女の横顔を照らす。
その瞳には、怒りではなく――決意が宿っていた。
「帝国は、愚かにも《バル=ヴァルド》の封印を破りました。 あの巨獣は王都を焼き、そして今も生きています。 ――私たちの敵は “ 人 ” ではなく “ 災厄 ” です。 帝国ガルドも、いずれ奴に喰われるでしょう。」
その名を口にした瞬間、風が谷を這い、焚き火がかすかに唸った。
炎が揺れ、兵たちの顔に赤い影を落とす。
「帝国を討つのではありません。利用します。 彼らの軍勢を “ 餌 ” にして、《バル=ヴァルド》をおびき寄せる。 ――そして、封印を再び果たすのです。この《レーヴェン》と、王家の血をもって。」
アルノが息を呑む。
「殿下、それでは……お命が……!」
「分かっています。けれど、それが私の宿命。 父が託した “ 契約の血 ” ――その意味を、果たす時です。」
セリアは静かに続けた。
「けれど……あなたたちは、生きてください。
この国の魂は、あなたたちの中にある。
どうか――最後まで、生き抜いて。」
「そして、その生を、私に貸してください。バル=ヴァルドを再び鎖すために。あなたたちの剣も、祈りも、息も――すべてが封印の力になる。」
セリアは立ち上がり、風を見た。
「峡谷を抜けた先 “ 灰の野 ” で迎え撃ちます。 正面は風槍の楔、ラウドは右の壕。私は中央に立ちます。 旗は高く――撃ち合うのではなく、刻むのです。 私たちが、ここに “ 生きていた ” ことを。」
焚き火がぱち、と鳴り、風が谷を駆け抜ける。
アルノが微笑んだ。
「風が来ます、殿下。あなたの声に、風が応えています。」
セリアは《レーヴェン》を握りしめた。
刃が光を返し、その奥で微かに鼓動する。
その音は、亡き父の心臓の鼓動のようにも聞こえた。
――この夜、滅びの地に一つの “ 希望 ” が息づいた。
それはまだ小さく、弱い光だったが、確かに、闇を押し返す力を持っていた。
