亡国の王女‐白薔薇の黎明‐

Novel

滅びの夜

滅びの夜

その夜、レヴァリア王都は――月を失った。
分厚い雲が空を覆い、星々は闇に沈み、街の灯が、一つ、また一つと飲み込まれてゆく。

地の底から、鈍く響く咆哮。
それは大地そのものが悲鳴を上げるようだった。
次の瞬間、黒い影が空を裂く。
翼は夜を覆い、眼は紅蓮に燃え、口からは灼熱の炎がほとばしった。

《バル=ヴァルド》。
伝承の災厄――神々が封じたはずの黒き巨獣が、現実となって王都を焼き払ったのだ。

レヴァリアの兵たちは恐怖を押し殺し、剣を構えた。
だが矢は炎に弾かれ、槍は灰に変わる。
崩れゆく塔、砕け散る石畳。
赤く染まる空の下で、悲鳴と祈りが交じり合っていた。

その地獄の中を、王女セリアは走っていた。
焦げた風を裂き、崩れた回廊を越え、血と煙の中、ただ一人――父のもとへ。

玉座の間は、ほとんど瓦礫に飲まれていた。
壁には深い亀裂、天井からは火の粉が降り注ぐ。
崩れかけた玉座の前で、王は倒れていた。
その手には一本の剣――
王家に伝わる聖剣《レーヴェン》。
封印の力を宿す、唯一の光。

「お父様!」
セリアは駆け寄り、燃え落ちる柱の影で彼の腕を抱く。
王は息を荒げながらも、穏やかな微笑を浮かべた。

「……セリア……聞け……」
その声は、炎の音にかき消されそうなほど弱々しい。
「バル=ヴァルドの……封印が…破れた……。帝国が……禁を侵したのだ……」

「封印……? まさか、そんな……!」
「封印は……王家の血で保たれていた。我らの血が絶えれば――奴は世界を喰らう。だから……」

王は苦痛に顔を歪めながらも、その手に残る力を振り絞り、聖剣を差し出した。

「この剣を……お前に託す。我らの血は、まだ絶えてはおらぬ……。封印を……再び……」

「お父様!駄目です! 共に逃げましょう!」
セリアは涙をこぼしながら叫ぶ。
だが、王はかすかに首を振り、娘の頬に手を伸ばした。

「…愛しき娘よ…このような重責を負わす父を…どうか許して…おく…れ……」

その言葉を最後に、王の手が静かに落ちた。
セリアは崩れ落ちる天井の下、震える指で剣を受け取る。
涙は熱に蒸発し、声は嗚咽に変わった。

「お父様……この命にかえても、必ず……」

セリアは震える指で自身の髪を撫で、そこに挿していた小さな白花の髪飾りを外した。
幼いころ、父が贈ってくれたもの――王家の象徴でもある花。

彼女はそれをそっと王の胸元に置いた。
燃え落ちる天井の光がそれを照らし、花弁が一瞬だけ生き返ったように輝く。

「どうか……この花が、父の眠りを守りますように。」

次の瞬間、崩れゆく空気が吹き抜け、ほどけた銀の髪が火の粉と共に舞った。
炎の赤が揺れ、灰の黒が舞い、銀の髪がその狭間で光を描いた。

外では雷鳴が轟き、黒き巨影が天を横切る。
その翼が月を覆い、街を灰に変えてゆく。

セリアは立ち上がった。
《レーヴェン》を胸に抱き、燃え崩れる玉座の階段を駆け下りる。
炎の中で、彼女の銀色の髪が光を返した。

「――私が生きる限り、レヴァリアは滅びない。」

その声は、炎の轟きにも、雷鳴にも消されなかった。
黒煙の中、ただ一つの影が、確かに立っていた。

その瞬間――空が裂けた。
轟音と共に、黒い翼が天を覆う。
熱風が渦を巻き、燃え崩れる塔の破片が宙を舞う。
空を焦がすほどの巨大な影が、静かに宙を支配した。

《バル=ヴァルド》。
紅蓮の双眸が、炎の海に立つ一人の少女を見据える。
その翼は夜そのもののようで、羽ばたくたびに世界が震えた。

セリアは息を飲み、しかし一歩も退かなかった。
《レーヴェン》を強く握りしめ、熱に歪む空気の中、銀の髪をなびかせながら、紅の瞳を真っすぐに睨み返した。

「……よくも、父を……民を………」
悔しさと悲しさが拳を震わせた。

「グォォォォォ――――ッ!!」
紅蓮の咆哮が空を裂く。
それでもセリアの瞳は揺らがなかった。

「バル=ヴァルド――私はお前を鎖す。」

漆黒の翼が大気を叩く。
吹き荒れる熱風が炎を巻き上げ、夜の城を、まるで世界の終焉のように照らした。
その瞬間、雷光が走り、セリアと巨獣の影が、燃え落ちる城の中で揺らいでいる。

王の血を継ぐ最後の光――
それが、王女セリアの姿だった。
そして夜は、静かに崩れ落ちていった。

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